話し合いの授業
5月24日の朝日新聞の教育欄「チャットGPT 逆らうより使いこなす」の記事で、実はチャットGPTの事よりビックリしたのが、ドイツの高校での学習内容でした。歴史の授業で、「第一次世界大戦前夜、ドイツ帝国最後の皇帝ウィルヘルム2世の支持者ならどんなスピーチをするかをテーマにチャットGPTに架空の草案を書かせ、当時の歴史的事実と一致しているか生徒と考える」とか、英語の授業で「2021年の米連邦議会議事堂襲撃事件を取り上げ、トランプ元大統領だったら支持者にどんな演説をするか、チャットGPTが英語の表現やスタイルがトランプ流か生徒と考える」など、私の知っている高校の授業とは少し違うものでした。そこでは、生徒の活発な話し合いが行われていることが推察できます。
*大阪浜寺公園バラ庭園
そんなことを考えていて思い当たったのが、どこかで目にした「日本人は討論ができない」という言葉。ここで「討論て何?」という基本的な疑問が。「討論」とは賛成反対に分れてどちらが良いか意見を述べ合うもの。よく似た意味に使われる「議論」が良い方向に導くための物なのに対して、「討論」は勝敗を付けるためのものだそうです。
何となく使っていた二つの言葉ですが調べてみて納得。ただ、どちらにしても日本人は「議論」も「討論」も苦手なような気がするのですが・・・。
たとえば、職員会議で「議論」していますか?ほとんど原案通りに進んでいたり、なんでも反対で進まなかったりしていませんか。私の経験でも、職員会議はより良いものを作り上げる議論の場でないといけないのに、反対したら全人格を否定したように思われそうで、意見が出しにくい雰囲気の時もありました。(私は言っちゃうタイプなので、反対した後、補足説明に行っていましたが)
大人でもそうですから、子どもたちに話し合わせることが苦手な先生もいるのではないでしょうか。初めから上手に話し合いができるわけがありませんから、小学生のうちは考え方や話し方、司会の仕方などいろいろな事を教えていかないといけません。でも、これが結構たいへん。1年担任して少しできたかと思っても、新しいクラスでは1からです。私も子どもたちに活発に話し合いをしてほしいと願い続けていましたが、うまくいった試しがなかったです。
この記事を読んでいて、日本の教育はやはり教え込むもの、受験のためのものだからなのではないかと思いました。どちらかというと学級会などでの話し合いより、授業の中で考えを深めるために話し合う機会を増やせば、話し合いは上手くなるのではないかと。その為には今のカリキュラムでは、なかなか話し合う時間が取れずに、ついつい教え込んでしまう。また、先生自身がそのような教育しか受けていないので、どうすればいいかわからない。難しいですよね。でも、話し合う力(議論も討論も)は、これからの子どもたちにはますます必要な能力だと思います。
この記事を読んでいて、他の国(例えばドイツ)の授業を見てみたいと思いました。教師は自分の経験だけに陥りやすいのですが、いろいろな授業(外国のものも含めて)を見ることで視野を広げ、今までにない授業のやり方を会得できるのではないでしょうか。