きぬさや自由帳

日々思うこと、旅日記、子育てのヒントなど

ギフテッドとディスレクシア

人間にはある程度「天賦の物」があると長い教員生活を送る中で思いました。ほとんど努力しないでもできる子もいれば、一生懸命やっているのに成果が現れない子もいます。ただ、これは幸せになれるかどうかとは無関係ですからどちらが良いというわけではありませんが、「努力しなくてもできればいいよな。」とついつい思ってしまいます。

毛越寺:曲水の宴遺構


8月30日付の朝日新聞の連載記事で「才能の光と影」と「患者を生きる」の二つの記事を読んで、本の学校では出来過ぎても出来なくても居場所の確保が難しいのだと感じ、教育関係者として今までの配慮は足りていただろうかと思いました。

記事にはIQ154の子のしんどさと学習障害の子のことに付いてそれぞれ書かれています。ギフテッドと呼ばれる、人より才能のある子どもたちにとって、中程度の子に合わせた学校の授業は、まさに高校生が小学校で勉強している(コナン君みたいに)くらいつまらないだろうし、もしかしたら時間の無駄かも。逆にディスレクシアと呼ばれる読み書きに障害を持つ子にとっても授業はわかりにくく、そこにいることはしんどいでしょう。

*角館:武家屋敷古井戸


1年生を担任した時、他の子と全然言い分が違う子がいました。喧嘩した理由がどうもおかしい。よく観察していると、話を聞いても理解できていないようす。打楽器などは出来ているのに。実は聞く力や読み書きに問題があったのです。でも、幼稚園では人のやっているのを見てすべてできていたので問題はなかったのです。目から入る情報はインプットできるのに、耳から入る情報はインプットできない。じっくり観察しないとわからない障害で、大きくなればなるほど他の子とコミュニケーションが取りづらくなります。お母さんと相談して支援学級に入級しフォローしてもらえる中で小学校生活が送れました。

子どもが困っていても、保護者も教師も困っているのがわからなかったり、理由を確かめようとせず問題行動ばかり責めたりしていることもあるのではないかと思うのです。

以前研修で少年鑑別所の方が、犯罪を犯す人の中にかなりの割合で発達障害の人がいるとおっしゃってました。それは、早くに見つけて支援することで救えるのではないかともおっしゃっていました。また、30日付の「才能の光と影」でも大人になってギフテッドとわかった人が、小学生の時知っていたらつらい思いをしなくて良かったのにと書かれていました。

教師としていろいろな子どもを預かる専門家として、このような子を見つけて助けてあげることはとても大事なことだと思います。そして、支援できる体制をできるだけ早く作ることが!

奥入瀬渓流


新学期が始まり忙しい時期でしょうが、こんな子はいないでしょうか?周りと合わせられないのは、問題行動があるのは、どんな理由・困りごとがあるからなのでしょうか?そんな視点も忘れずに子どもたちに寄り添ってあげてください。